2010年8月11日水曜日

スカートの裾ひらり「依存さま」

いろいろ簡単なようで難しくて。。。でも本当はすべて簡単であるはずなのに。。。

なんでこうも一気に「依存」について考えてしまうような話が最近多いんだろうか。。。
どの話を聞いても実際は、自分の頭、自分の経験、自分の意識という限られた世界でしか全てを考えられないのがもどかしくもあり、その一方で他人の話が鏡となって自分の至らなさを恥じる瞬間に陥ったりして、人との対話というものは、結局すべては自分に戻ってきて、今の自分を問うてみることになるのだった。
折しも今夜は新月、真っ暗な月、外は静かである。

人は自分のことを棚に上げて、なぜ他人のことを心配するのだろう?
それは面倒くさい人間関係の成せる技でもあり、ある意味トリックなのではないかと思うことがある。人の心配、いや心配そのものが至極ナンセンスだと感じるのだけれど、人のドラマをどこか自分に置き換えて考えたり、感受性が動かされたり、なんと人は自分至上なのかと無意識に上がったみかん箱の上に立っている自分に気がつくのだ。それも一種の共依存というやつなのか?なんだか恥ずかしい限りである。

oopus! what do I know about it?
私に他人の何がわかるのか?

それにまつわる質問の答えなんぞ一つの正解があるわけでもなく、、、
そして、結局は自分はどう思い、どう行動するのか?という問いかけにまた返ってくるのである。

思考よりも何よりも正直なのは体だと常々思っている。
頭でどう考えようが、心がどう動こうが、体の反応の正直さには勝てない。

「依存」もそう。結局は体が依存してしまっているわけなのでは?
ならば、体の「依存」を解けばよろしいのだ。
それを意思の力でとか、はたまた心の問題とスリ変えたりするから、ものごとが難しくなる。
一番簡単なのは、体を動かし、太陽を浴び、睡眠と休息を充分とり、愛を感じ、楽しくなることをすれば、何も余計に何かに依存することもないのだろう。

ある意味、地球に依存し、家族に依存し、友人に依存し、森羅万象に依存し、記憶に依存し、思い込みに依存し、、、どちらにしても人は何かに依存しなければ生きていけないのだとしたら、その依存の元にある人の操作下における邪悪なビジネスや虐待に繋がる事柄に加担するようなことからは手を引きたいと思うのだけれど、、、。

誰か明確な答え、このテーマについて対話のできる方がいたらご連絡くださいませ。

なんだかサマソニ・キッズの明るい投稿のあと、しかもこの暑い最中。。。こういった内容で少し申し訳ないような気がしています。「女は軽やかでなければいけない」を信条にしつつも、重い、重いんですね〜時に至極重くなってしまう私のnoise........

以前に「ザ・コーブ」について、私からの意見をほのめかしていましたが、、、特に言及することはないのですが、アレも私にとっては一種の「依存なのではなかろうか?」と思ってしまうのだな。。。

でもこういうことを言葉であーだこーだ書いていくのも、一種の「依存」でございますね。はい。
多面的に、多次元的に読んでくださいまし。

拝。

ほな、重さをもひるがえし、軽やかに参ることにいたします。お盆イエイ!!!



2 件のコメント:

HALF OF WAZAN さんのコメント...

Dependence=Romance

talkwithlove さんのコメント...

「依存」は成長の過程で不可欠なことと言っている人もいたな。。。